境内・文化財

1000年前から四天王寺を見守る重要文化財の薬師如来像や織田信長公も祈願したと伝わる三面大黒天、鎌倉時代の聖徳太子像、山門や鐘楼などの指定文化財、
さらに、織田信長公の母や藤堂高虎正室などの偉人のお墓もあります。

聖徳太子像(重要文化財)

およそ800年前の鎌倉時代に制作された聖徳太子16才の像。
両手に金色の柄香炉を持ち、父である用明天皇の病気平癒を願う様子を描いたものです。
ふっくらとした顔立ちや、朱をさした唇が若々しい印象を与えますが、そのなかにもどこか強い意志を感じられます。
渋みのある色調で描かれながらも、袈裟の文様の一部に金や赤を使っており、画面を一層引き立たせています。
制作:鎌倉時代
技法:絹本着色
大きさ:112×39.5cm

藤堂高虎、同正室像(重要文化財)

藤堂高虎公は、戦国時代から江戸時代にかけて活躍した武将です。

藤堂高虎像は脇には太刀を下げ、鋭い眼光と大きな口元が、高虎公の威風堂々たる様子を如実に再現しています。
正室は名を久芳院といい、像では逆に左向きに座っています。桃山時代に流行したぶどうや柳などの華やかな模様の打ち掛けが描かれており、津城で急逝したあとは四天王寺の墓地にて葬られました。

高虎公は1608年に津藩(現在の三重県津市)の初代藩主になり、
関ヶ原の戦いで戦場となり焼けてしまった津城や津のまちの復興に尽力しました。

四天王寺も焼失しましたが、藤堂高虎公の正妻の菩提寺として、高虎公により再興されました。妻を大切に想う高虎公の愛情深い一面がうかがえます。

四天王寺にお参りの際は、ぜひ境内の山の中腹にある高虎公の正室・久芳院のお墓に手を合わせていただき、
人々の平安を願ってまちづくりをした藤堂高虎公に想いを馳せていただけたら幸いです。

薬師如来像(重要文化財)

四天王寺の「薬師如来像」は、平安時代に生きた物部美沙尾(もののべのみさお)という女性の発願によって造立されたものです。

病に伏していた物部美沙尾は、病気平癒を祈願して薬師如来像の造立にとりかかります。
しかし物部美沙尾は仏像の完成を見届けることなく亡くなってしまい、願いを継いだ僧・定尋によって1077(承保4)年2月に完成しました。

物部氏といえば、仏教の受け入れに反対し、蘇我氏や聖徳太子と激しく対立したことで有名です。
しかし、500年のちの平安時代には、物部氏の娘も仏さまを敬い、病気平癒の願いをかけていたのです。

仏像造立の経緯は、仏さまの胎内から見つかった紙に記されていたもので、他には平安時代の鏡や櫛などが見つかっています。
人々は物部美沙尾が生前愛用したものを納め、安寧を祈ったのではないかと考えられます。

薬師如来像は昭和20年の空襲により薬師堂が焼失した際に、奇跡的に難を逃れ、現代に続きます。
像高:65cm
技法:一木割矧造、彫眼、漆箔
作者:仏師定朝

三面大黒天(織田信長公祈願)

三面大黒天は比叡山延暦寺でもまつられている神様で、豊臣秀吉の守り本尊としても知られます。
平和な世を作るために天下をめぐって争った時代、天下人に信仰されたことから、開運出世の神様とされてきました。

四天王寺の三面大黒天も、大黒天・毘沙門天・弁財天の三つの神様が合わさったお姿をしていて、戦国時代に広まった三面大黒天信仰の影響で作られたと考えられています。
また、大黒天は五穀豊穣の神様であり、にこやかなお顔やふくよかなお姿は、豊かな実りを思わせます。

毎月3日を三面大黒天の日とし、3日に参拝された方には聖徳太子の入浴剤「和み湯(青)」※非売品 をプレゼントいたします。
※納経所にてお渡ししますので、そちらまでお越しください。

山門(指定有形文化財)

四天王寺の現在の山門は、江戸時代の1646(寛永18)年に建立されました。

四脚門(しきゃくもん)という本柱の前後に控柱を2本ずつ、左右合わせて4本立てた建築様式で造られています。
装飾的な彫刻が少なく彫りが浅いという江戸初期の特徴がよくあらわれています。

市の指定有形文化財です。

梵鐘

四天王寺の梵鐘は、1680年(延宝8年)に作られたと伝わり、津市の文化財に指定されています。
大晦日には、世の中が平和であるようにと願いを込めて、除夜の鐘をつきます。

本堂

太平洋戦争時の空襲によって、伊勢の国四天王寺は山門と鐘楼以外を焼失してしまいました。

現在の本堂は、52世の密禅定行和尚が托鉢行によって再建したものです。

四天王寺に眠る偉人のお墓

織田信長の母・土田御前

織田信長の生母は、土田御前(どたごぜん・つちだごぜん)の名で知られています。
法名は花屋寿栄禅尼(かおくじゅえいぜんに)です。

織田信秀の継室となり、信長・信行・秀孝・信包・お市・お犬を生みました。(※諸説あります)
本能寺の変の後は津城の織田信包を頼り、晩年を津で過ごしました。

藤堂高虎の正室・久芳院

藤堂高虎の正室は、足利氏の子孫である一色氏の生まれと伝わります。
法名の久芳院殿桂月貞昌大姉から、久芳院と呼ばれます。

夫の藤堂高虎は、7度も主人を変えたことや、築城の名人として有名な戦国武将です。
関ヶ原の戦いと大坂の陣では徳川家康に味方し、伊賀や伊勢を与えられ、津城に入ります。

1616(元和2)年、津城で亡くなった久芳院は四天王寺に葬られました。
藤堂高虎は愛妻家であり、四天王寺には2人の肖像画や、菩提供養の想いのこもった文書が残されています。

松尾芭蕉の文塚

1737(元文2)年、津の俳人である二日坊宗雨(菊地宗雨)によって建立されました。
全国の芭蕉文塚のなかで18番目の古さといわれます。

文塚とは、詩文などの草稿を埋めて供養や記念のために建てた塚のこと。
芭蕉文塚は句碑に先行するもので、全国的にも希少です。

写真家の祖・堀江鍬次郎

堀江鍬次郎(くわじろう)は、日本写真史上の重要人物です。

1831(天保2)年、江戸染井の津藩邸で生まれました。

斎藤拙堂の尽力で長崎に留学した津藩士の1人で、西洋の化学を学び、学友の上野彦馬とともに写真術の研究をはじめます。
当時は写真に使う薬剤を自分で作らなければならず、牛の血や骨から作った青酸カリやアンモニアを使っていました。

1861(文久1)年、津藩主藤堂高猷(たかゆき)の援助を受け、フランスから最新の写真機材と感材用の薬品を取り寄せ、江戸の津藩邸で藤堂高猷の撮影を成功させます。

津藩校有造館の蘭学教頭を務め、上野彦馬とともに化学解説書『舎密局必携』を著すなど、化学や写真術の普及に尽力しましたが、1866(慶応2)年に35歳の若さで亡くなりました。
遺言により鍬次郎の亡骸は、恩師斎藤拙堂家の墓地の一角に葬られています。

江戸時代の儒学者・斎藤拙堂

斎藤拙堂(せつどう)は、江戸後期の儒学者です。

1797(寛政9)年、江戸柳原の津藩邸で生まれました。
江戸幕府直轄の学校である昌平坂学問所で学び、津藩校有造館の学職や、津藩主藤堂高猷(とうどうたかゆき)の教育係を務めます。

欧米に対抗するには進んだ西洋の学問の習得が不可欠と考え、洋学や種痘の採用と普及に努めました。
津藩の優秀な人材に洋学を学ばせるため、自身の書を売ることで費用を捻出し、長崎に留学させたといいます。
また、種痘(天然痘の予防接種)に対する人々の不安を解消するため、最初に自身の孫娘に種痘の安全性を示したそうです。

1859(安政6)年に有造館を退官したあとは鳥居町(四天王寺の近く)に山荘を構え、文人たちと交流して過ごしました。
1865(慶応元)年7月15日、69歳で亡くなり、四天王寺に埋葬されています。