歴史

四天王寺は聖徳太子によって建立されたと伝わるお寺です。
境内からは奈良時代の瓦が出土しており、1000年以上もの歴史を有します。

目次

  1. 【飛鳥時代】聖徳太子により建立される
  2. 【奈良時代】一帯に仏教文化が栄える
  3. 【平安時代】本尊・薬師如来像の造立
  4. 【室町時代】正海慈航禅師によって曹洞宗に改修
  5. 【戦国時代】衰退と復興を繰り返す
  6. 【江戸時代】津城主 藤堂氏の庇護により隆興
  7. 【戦前】神仏分離政策による衰退と復興
  8. 【戦中】空襲により境内の大半が焼失
  9. 【戦後】戦災からの復興

【飛鳥時代】聖徳太子により建立される

6世紀ごろ、朝廷の有力者たちは仏教の受け入れをめぐって対立していました。
大陸から伝わってきた仏教の受け入れに賛成する蘇我氏と、日本古来の神さまをまつり仏教の受け入れに反対する物部氏の争いは激化し、軍を率いて戦うようになります。

蘇我氏は苦戦を強いられ、3度退却します。

『聖徳太子像』(四天王寺蔵)
『聖徳太子像』(四天王寺蔵)

4度目の出陣の前、蘇我氏側についていた聖徳太子(厩戸皇子)は、ヌルデの木を切って四天王像を刻み、「物部氏に勝利した暁には、四天王をまつる仏塔を建立する」と誓い、戦勝を祈願しました。
四天王は、仏法と仏法に帰依する人々を守る存在で、国家の守護神とも考えられていました。

587(用明2)年、4度目の出陣で物部守屋を討ち倒し、ついに蘇我氏が勝利。

聖徳太子は誓いどおり、各地に4つの四天王寺を建立し、そのうちの1つが三重県津市にある伊勢の国 四天王寺であると伝わります。

正確な創建年は不詳ですが、境内から奈良時代の瓦が出土していることから、1000年以上前に四天王寺が建立されたと考えられます。

【奈良時代】一帯に仏教文化が栄える

四天王寺の南西400mほどの場所には、かつて鳥居古墳がありました。

1963(昭和38)年、鳥居古墳の発掘調査が行われ、多数の押出仏(おしだしぶつ)と塼仏(せんぶつ)が出土します。


塼仏「如来立像」のレプリカ
塼仏「如来立像」のレプリカ

押出仏とは、銅製の型に薄い銅板をあて、つちやたがねで打って仏さまの形を浮き出させ、金めっきをして仕上げた仏像。
塼仏とは、粘土を型に押し付けて仏さまの形を浮き出させ、素焼きにした仏像です。
押出仏・塼仏ともに日本では7,8世紀ごろ流行し、鳥居古墳から出土したものもこの時期に制作されたと推定されています。

出土した押出仏の1つ「一光三尊像」は、「法隆寺献納押出仏」や「唐招提寺蔵如来立像」と形が一致しており、同じ原型から打ち出したものとわかりました。


押出仏「一光三尊像」のレプリカ
押出仏「一光三尊像」のレプリカ

多数の仏像が出土した鳥居古墳の発掘調査から、7,8世紀ごろ一帯に仏教文化が栄えていたこと、奈良の仏教文化と密接な関わりがあったことがうかがえます。
鳥居古墳の出土品が直接四天王寺と関わりのあるものかは定かではありません。
しかし、聖徳太子が建立した法隆寺にあるものと同じ形の仏像が出土したことは、伊勢の国 四天王寺と聖徳太子の関係を想起させます。

【平安時代】本尊・薬師如来像の造立

伊勢の国 四天王寺のご本尊は、平安後期に作られた「薬師如来像」です。

薬師如来は、古来より病気を治す医薬の仏さまとして信仰され、左手に薬壺を持ち右手に施無畏(せむい)印を結んだお姿で表されます。

聖徳太子の父・用明天皇も自身の病気平癒を願い、寺と薬師如来像の造立を願ったとされるなど、仏教伝来当初から篤く信仰された仏さまです。
しかし、用明天皇は完成を待たずして崩御されたため、聖徳太子と推古天皇が想いを継ぎ、法隆寺と金堂の「薬師如来像」を完成させたと伝わります。

伊勢の国 四天王寺の本尊「薬師如来像」
伊勢の国 四天王寺の本尊「薬師如来像」

伊勢の国 四天王寺の「薬師如来像」は、平安時代に生きた物部美沙尾(もののべのみさお)という女性の発願によって造立されたものです。

病に伏せていた物部美沙尾は、病気平癒を祈願して薬師如来像の造立にとりかかります。
しかし物部美沙尾は仏像の完成を見届けることなく亡くなってしまい、願いを継いだ僧・定尋によって1077(承保4)年2月に「薬師如来像」が完成しました。

物部氏といえば、仏教の受け入れに反対し、蘇我氏や聖徳太子と激しく対立したことで有名です。
しかし、500年のちの平安時代には、物部氏の娘も仏さまを敬い、病気平癒の願いをかけていたのです。

仏像造立の経緯は、仏さまの胎内から見つかった紙に記されていたもので、他には平安時代の鏡や櫛などが見つかっています。
人々は物部美沙尾が生前愛用したものを納め、安寧を祈ったのではないかと考えられます。

体内施入品
本尊「薬師如来像」の体内から見つかった平安時代の品々

また、胎内には821(弘仁12)年の寺領や図帳が記載された紙も納められており、平安時代前期の四天王寺が一帯の豪族たちの帰依を集め、広大な寺領を持つ大寺院であったことも明らかになりました。

1062(康平5)年、後冷泉天皇から斎田(神に供える米を栽培する田)を下賜されたと記録が残るなど、平安時代中期までの四天王寺は朝廷や豪族の帰依を得て栄えていたようです。

しかしその後は朝廷の弱体化と武士の台頭などの時代の流れを受け、さらにお堂を戦火により焼失するなど、四天王寺は荒廃してしまいます。

伊勢国の地誌『勢陽五鈴遺響』によると、1147(久安3)年に藤原景通(加藤景道)によって薬師堂などが修復され、お寺の再興は息子の藤原景清にも引き継がれました。
藤原景清は平家に仕えた武将で、『平家物語』にも源平合戦での活躍が記されています。

【室町時代】正海慈航禅師によって曹洞宗に改修

創建当初、四天王寺の宗派は法相宗でしたが、平安中期に律宗、その後天台宗へと変わっていきました。
当時の仏教宗派は学問の派閥としての色が強く、現代のように固定されたものではなかったためです。

室町時代に正海慈航(しょうかいじこう)禅師によって曹洞宗に改められ、以降現在にいたるまで四天王寺は曹洞宗の禅寺となっています。

正海慈航禅師は、伊勢の国の長野城主 工藤氏の子。
京都の南禅寺において仏門に入り、比叡山延暦寺で具戒(僧侶が受けるべきすべての戒め)を受けます。
加賀の国の宗徳寺を経て、四天王寺に立ち寄りました。

1429(永享元)年、伊勢神宮に詣でた正海禅師は、宗徳寺を開山した玉叟良珍(ぎょくそうりょうちん)禅師に会います。
玉叟禅師に「汝は既に大悟徹底の境地に至ったようである。また今でこそ荒れ果てているが、塔世山(四天王寺の山号)は聖徳太子が開いた霊寺である。ここで努めて修行寺を興し、他に遊することなかれ」と言われたことをきっかけに、正海禅師は四天王寺を曹洞宗に改めました。

しばらくすると多くの檀信徒が訪れ、活気のある禅寺となったようです。

ちなみに聖徳太子にまつわる伝説の1つに「奈良の片岡で禅宗の開祖 達磨大師に出会った」というお話があり、聖徳太子によって創建された四天王寺が時を下り禅寺となったことは不思議な縁を感じさせます。

【戦国時代】衰退と復興を繰り返す

1565(永禄8)年に伊勢を中心に起こった騒乱により、薬師堂を残して四天王寺の大半が焼け落ちてしまいます。
このとき僧侶たちは門前の蓮池に稲を植え、後ろの山で麦を育てて飢えをしのいだそうです。

1568(永禄11)年には織田信長の伊勢侵攻により、一帯はますます荒廃していきました。

1580(天正8)年、信長の弟 信包が津城主となり、母 土田御前を四天王寺に埋葬、寺領二百石を寄進します。
一説によると信包は四天王寺の衰退を惜しみ、兄 信長の冥福を祈って斎田(神に供える米を栽培する田)を合わせて220石を寄進したそうです。

花屋寿栄禅尼(織田信長の生母)の墓
花屋寿栄禅尼(織田信長の生母)の墓

しかし1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いが起こると、前哨戦として西軍の毛利軍など数万の兵が津城に攻め寄せ、四天王寺に陣をはって城攻めの前線基地としたため、ひどく荒廃してしまいました。

【江戸時代】津城主 藤堂氏の庇護により隆興

1608(慶長13)年、戦国武将 藤堂高虎(とうどうたかとら)は江戸幕府から伊賀や伊勢など約20万石の土地を与えられ、津城に入りました。
高虎は大阪の豊臣家に備えて津城の大修築と城下町の整備に尽力します。

街道の要衝に位置した四天王寺は藤堂高虎によって厚く庇護されました。
1616(元和2)年、高虎の正室 久芳院が四天王寺に埋葬され、寄進が行われました。
1619(元和5)年には高虎らによってお堂が建てられ、僧侶にも二十人扶持(1年相当のお米を20人分)が給付されています。

1637(寛永15)年には2代目藩主 藤堂高次によって本堂が造営、1641(寛永18)年には山門が建てられました。
このときに建てられた山門は現存しており、津市の有形文化財に指定されています。

四天王寺の山門(市指定有形文化財)
伊勢の国 四天王寺の山門(市指定有形文化財)

1656(明暦2)年には、高次が寺領100石を寄進。
1659(万治2)年には3代目藩主 藤堂高久によって薬師堂が修繕されました。
さらに1759(宝暦9)年と1783(天明3)年の二度にわたり、100石の寺領と年100俵の米が与えられるなど、江戸時代の四天王寺は藩の庇護をうけて栄えました。
また、当時の伊勢神宮への参宮街道沿いに位置した四天王寺は、江戸時代に流行したおかげ参りによって、多くの参詣人が訪れたようです。

1797(寛政9)年に刊行された観光ガイドブック『伊勢参宮名所図会』には、四天王寺が紹介されています。

『伊勢参宮名所図会』(蔀関月編・画 国立国会図書館蔵)
『伊勢参宮名所図会』(蔀関月編・画 国立国会図書館蔵)

当時の四天王寺は現在よりも広く、太子堂や弁天堂、天神社などが境内にあったことがわかりますね。
本堂右手には現在も残る芭蕉翁文塚(ばせをつか)が描かれています。

【戦前】神仏分離政策による衰退と復興

明治政府は神道の国教化政策を行うため、1868(明治元)年に神仏判然令を発します。
これは神社から仏教的な要素を排除するために出されたものでした。

それまで津藩から与えられてきた扶持米(収入)を失い、寺院経営は困窮してしまいます。

明治維新の混乱が落ち着いてきた明治時代中期、鈴木天山禅師が四天王寺の復興に尽力します。
太子堂や八王子社、薬師堂などの改修や、阿弥陀如来坐像・大日如来坐像・阿閃如来坐像・千手観音坐像・薬師如来坐像などの平安仏(平安時代につくられた仏像)が改めて安置されました。

四天王寺戦前の写真1
伊勢の国 四天王寺にあった薬師如来坐像(左)と千手観音坐像(右)

【戦中】空襲により境内の大半が焼失

1945(昭和20)年7月にアメリカ軍による空襲が津市中心部を襲いました。
この空襲によって、四天王寺は山門と鐘楼門を除くお堂をすべて失います。

四天王寺戦前の写真2
『伊勢参宮名所図会』にも描かれた八王子社。空襲により焼失した

四天王寺に安置されていた貴重な平安時代の仏像の数々も、すべて焼失してしまいました。
このときご本尊の薬師如来坐像だけは、檀信徒の発案により市郊外の蔵に避難されており、空襲を逃れました。

【戦後】戦災からの復興

1947(昭和22)年、密禅定行禅師と檀信徒の力によって、戦火により荒れ果てた四天王寺に仮本堂が設けられます。

定行禅師はその後二十数年にわたり諸国を行脚して托鉢行を行い、本堂の再建を目指しました。

1966(昭和41)年に、念願の本堂再建が実現。

定行禅師と、続く倉島昌行禅師によって坐禅の実践が行われ、現代まで続く禅寺としての四天王寺が確立されました。

現在四天王寺では毎週日曜日の朝に坐禅会が行われるほか、
気軽に禅寺の雰囲気が味わえる禅体験を予約制で実施しています。